今年1番学んだこと
先日走ったハーフマラソンで
2年ぶりにハーフを走った。
2016年に走ったときは、2カ月後に初のフルマラソンを控えていて、その練習を兼ねて出場し、結果は2時間18分…。本当にあの時はつらかった。。。15km地点で、脚がガクっと重くなる。。。エイドで食べたチョコレートで口がベトベトになる(それは私が悪い)。。。応援のオッチャンの声も、もはや騒音にしか聞こえないほど、精神的にも肉体的にもボロボロだった。なんでみんなニコニコ走ってるんだろう。何が楽しくて走ってるんだろう。。。なんで私は楽しめないんだろうと、反省した。
反省点はひとつ。時間配分を間違え、序盤で飛ばしたのが間違い。自分のエネルギーの限界を知らずに飛ばすからこういうことになる。
そして今年は、2時間16分
2分も縮められたし、何より最後まで気持ちよく走れた。その理由は明らか、「無理せず、飛ばさず」が出来たから。1km6分半で走ると決めて、最後までほぼ守り続けた。応援のオッチャンの声にも、心から「ありがとう」って思えた。2年前イライラしながら走っていた私は、先の見えないレースと辛さに苛立ち、心の余裕を失っていたのだ。
ありがとうが言える余裕
以前ブログで【「ありがとう」が素直に言える組織】
という記事を書いたが、「ありがとう」って余裕がないと素直に出てこないものです。
私たちは何かを自分のためにしてもらったり、思いやりの言葉をかけてもらったら、感謝の言葉を口にするものだと思っているが、それを言う余裕さえなくなることがあるんです。仕事やプライベートで追い詰められていたり、相手との関係性がよくなかったりすると、当たり前のことができなくなる。
まさかと思うかもしれないが、精神的に調子が悪く、余裕がなければ、誰しもこの状態には陥る。
だって、沿道で応援してもらったら「ありがとう」なのに、その応援さえも騒音に感じるのだから。
もう北海道の地震の話はやめようと思っていましたが、やっぱりあの時の気持ちの動きは、私にとても大きなものを残したので、その中からひとつ。
一応リンクも→【札幌で地震に遭遇して】
札幌で地震に遭い、たくさんの方から心配のメッセージをいただきました。もちろん、ありがたかったのですが、途中停電などで先の状況が見えなくなったときは、結構イライラしていました。正直、感謝の返信も儀礼的にしていたものもありました。
心配の気持ちだけを押し付けられるのは、なんのプラスにもならないじゃん。遠くにいても、一緒に何か考えてくれるか、本当の励ましをしてくれるのか、、、あぁ、もうツライ、ツライ、、、心配はいいけど、帰る手段を考えるのは私じゃん!ってイライラしてた。
いやもう、そりゃワタシより大変な思いをしている人がたくさんいるのはわかってる。
それより恵まれている環境なのもわかっている。
でも、先が見えないのは不安なんですよ。しかも、観光客であるヨソ者は多くの人に迷惑をかけているし。
あぁこうやって、感謝の気持ちを口にできなくなっていく・・・
そう思いました。
先のことなんてわからないけど、なんとなく先のことがイメージできないという状況は、終わりの見えない真っ暗なトンネルに入ってしまったような気持ちになるんです。15km付近で脚がガクっときたときのように「こんな痛みはじめて!」となって、不安な気持ちが襲ってきて、あと6kmが途方もない距離のように思えてくる。
余談だが、2年前ワタシに伴走してくれていた方は、「平井さんが応援のオッチャンに悪態ついてて驚いたけど、翌年自分がコスプレして(衣装をつけて)走ったら、あまりの辛さに応援のオッチャンに悪態つきそうになった」と言っていた。そう、人間、余裕がなくなると、そんなもんだ。
こころの余裕
だから、感謝の気持ちを言えない人がいたら、その人を責めるのではなく、「余裕がない」ということに思いを馳せてほしいと思う。こういうときは感謝するべきだ、などと思っていると、相手を責めてしまうことになる。
組織の中で、そんな「共感力」をお互いが発揮できるようになったら、精神的不調も少なくなるのかもしれませんね。
最後に、北海道胆振東部地震だけでなく、災害で被災した地域の1日も早い、町の復興・人の復興を祈っております。
今年も1年ありがとうございました。
たくさんの学びを仕事や遊びから得ることができました。そして、学んだことを活かし、これからも人や組織が元気になることを応援していきたいと思います。